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見る人によって

エッセイ
11 /24 2010
僕が7歳のとき突然家を引っ越さなければならなくなった。幼馴染とともに入学するはずたった小学校も、当然変わった。
その入学式の日、まだ引越し前だったため、タクシーで入学式に向かった。
ところがよくある地名だったためか運転手が間違い、僕が小学校に着いたときはすでに入学式は終わっていて、新入生は教室に入っていた。
ガランとした校庭にひとり、僕は立っていた。
体にあわないランドセルをしょって、初めての廊下を歩き、僕は自分の名前が貼り出されている教室の前に立った。

教室では女の先生が、席を生めた生徒たちに話をしていた。
ガラッ、ドアを開けて教室に入った僕に集まる視線。馴染みのない土地のまったく会ったこともない同級生。
その日はなんとか教室にいたものの、出足をくじかれた僕は、翌日から学校を「サボり」始めた。
朝、普通に学校へ行くように出る。そしてマンションの階段の下に隠れ、じっとしている。
蟻を見ていたり、土に絵を描いたり。そんなことをして時間をつぶし、同じ位の子たちの姿が見えると、家に帰る。そこで必死の嘘をひねりだし学校であったことなどを話す。
どうやら嘘のうまい子供だったらしい。
母は新しい学校でうまくやっているようだと安心の表情を浮かべていた。
しかし入学早々、無断欠席を繰り返す子供を学校が放っておくわけがない。1週間たって担任から電話があり、「サボり」はばれた。
学校に呼び出され帰ってきた母は不機嫌だった。けれどそれは僕に向けられたものではなかったようだ。何年か経って聞いた話では担任が「小学校1年生でそんな嘘をつく子はどこかおかしいんじゃないか」と言われたらしい。
その学校は1学期だけで、夏休みに今も住んでいる家に引っ越してきた。

2学期、一度経験しているぶん、今度の小学校にはすぐに馴染んだ。担任の先生は、今も思い出に残るような優しい男性のベテラン教師だった。
図画工作の時間、僕は粘土である動物を創っていた。
「これはなにかな?」
一人一人の創るものを見ていたM先生が、僕の手元を見て言った。
「象」
「象だね。象がなにをしてるとこかな?」
「座ってるとこ」

父母会のとき、母はM先生に呼ばれたと言う。以前のこともあるので、結構緊張したらしい。そのときにM先生が言ったのは「わたしは30年教師をしてきましたが、象が座ったところを創った子を見たことはありません。それだけでなく、絵も少し変わったものを描きます」
「うちの子は変わってるんでしょうか?」
「いえ、素直に本人は描いてるだけでしょう。でも、ものの見方が非常におもしろい。この子は将来、少し変わった道に進みたいというかもしれませんが、許してあげてみるといいかもしれません。このまま個性を伸ばしてあげてください」

僕が文章を書いたりするようになった頃、母がこの話をしてくれた。
最初の担任は「変」だと言い、M先生はそれを「個性」と捉えた。人によってそれぞれものの見方は違う。

「お前はだめだ」「その考えはおかしい」そう言われても、気にすることはない。評価する人によって、まったく違う意見が出る。
「どこへ行ってもお前はだめだ」そんな言い方はよくない。可能性を全否定するような言い方をする人を僕は疑う。

人を騙したり、バカにしたりそんな人の道に反するようなことをしているわけじゃないのならいい。
その可能性を否定する権利は誰にもない。



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コメント

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本当に

すてきな先生にめぐりあわれましたね。絵の描き方にしても、文の書き方にしても、環境の中で育っていくうちに、その文化の物の見方、捉え方に、しばられてくると思うのです。今イタリアで幼い姪っ子たちが描く絵を見て、その独創性に驚かされ、また、日本で一般に思い浮かべるのとは違ったイメージを見て、特にそう思います。

「像と言えば、横から立った姿」ではなく、座った姿を描こうとした紘野さんの、周囲の描くイメージにしばられない自由な描き方も、その独創性を評価できた先生も、そして、その先生のすばらしさを今も思い出される紘野さんも、すばらしいと思います。開口健が『裸の王様』という小説で、ふんどしをまきチョンマゲのある裸の王様を描いた子供に、驚かされたというくだりを思わず思い出しました。『星の王子さま』冒頭で、幼い頃の語り手が、「蛇が象を飲み込んだ図」を描こうとしたのに、大人たちに「帽子にしか見えない」と言われて、絵を描くことをやめてしまったくだりも、思い出しました。

画一社会と呼ばれがちな日本社会ですが、この先生のような方が増えて、子供たちが自信を持って自分の絵を描き、自分の人生を生きていけるような学校や家庭が増え、社会になっていくよう願わずにはいられません。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: 本当に

小学校1、2年生のときの担任の先生だったんですが、そのときだけは美術(当時は図画工作?)の成績がよかったです。それ以降は技術がないので、悪かったのですが。
文章を書くことを意識したのは3、4年生の担任の先生の影響ですね。授業中に書いたものを褒められて、成績の悪い子だったので、うれしかったんでしょう。
それが今、一応文章を仕事にしていることにつながっているようです。
自分の持っているものを褒められるのはうれしいことですから、ただそれだけで夢中になるきっかけにもなります。
人にものを教えるというのは、気付かせるということなのかもしれませんね。


> すてきな先生にめぐりあわれましたね。絵の描き方にしても、文の書き方にしても、環境の中で育っていくうちに、その文化の物の見方、捉え方に、しばられてくると思うのです。今イタリアで幼い姪っ子たちが描く絵を見て、その独創性に驚かされ、また、日本で一般に思い浮かべるのとは違ったイメージを見て、特にそう思います。
>
> 「像と言えば、横から立った姿」ではなく、座った姿を描こうとした紘野さんの、周囲の描くイメージにしばられない自由な描き方も、その独創性を評価できた先生も、そして、その先生のすばらしさを今も思い出される紘野さんも、すばらしいと思います。開口健が『裸の王様』という小説で、ふんどしをまきチョンマゲのある裸の王様を描いた子供に、驚かされたというくだりを思わず思い出しました。『星の王子さま』冒頭で、幼い頃の語り手が、「蛇が象を飲み込んだ図」を描こうとしたのに、大人たちに「帽子にしか見えない」と言われて、絵を描くことをやめてしまったくだりも、思い出しました。
>
> 画一社会と呼ばれがちな日本社会ですが、この先生のような方が増えて、子供たちが自信を持って自分の絵を描き、自分の人生を生きていけるような学校や家庭が増え、社会になっていくよう願わずにはいられません。

No title

>「どこへ行ってもお前はだめだ」

こんな感じのことを言う人が実際にいるから困ります。
こういう人間が人の親になることに、恐怖を感じます。
子どもは親を選べないのですから。


いつも素敵な文章、ありがとうございます。

こちらこそありがとうございます

自分がいわれたり、人がいわれたりするのを見たり・・・。
悪気がなく言っているのが恐ろしいんですよね。
それどころか「君のためにいっている」と思っているところが。
自分の価値観だけで語ってはいけないですよね。

ryoukouno

紘野涼です。
「スワローズ観察日記R」の管理人
仕事はフリーランスでライターやプランナーなどその他もろもろという感じです。
こちらではメインブログ、仕事では書けないようなもの、これまで書き散らかしたものをまとめていこうを思っています。
当サイトに掲載されている文章は、紘野涼に著作権があります。
無断転用、掲載はご遠慮ください。

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